大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

名古屋地方裁判所 昭和62年(ワ)1284号 判決 1990年8月31日

原告

木下藤子

被告

中田和市

ほか一名

主文

反訴原告の請求を棄却する。

訴訟費用は反訴原告の負担とする。

事実及び理由

第一請求

反訴被告ら(以下、単に「被告ら」という。)は、反訴原告(以下、単に「原告」という。)に対し、各自金三九一二万七八八五円及びこれに対する昭和六一年一一月四日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二事案の概要

本件は、原告が左記一1の交通事故の発生を理由に被告中田和市(以下「被告和市」という。」に対しては民法七〇九条により、被告中田妙子(以下「被告妙子」という。)に対しては自賠法三条により、損害賠償請求をする事案である。

一  争いのない事実

1  交通事故

(一) 日時 昭和六一年一一月三日午後五時四五分ころ

(二) 場所 名古屋市千種区揚羽町一丁目四一番地先路上

(三) 加害車両 被告和市運転の普通乗用自動車(名古屋五四と六二九)

(四) 被害車両 原告運転の普通乗用自動車(名古屋三三ね四五〇九)

(五) 態様 信号機により交通整理の行われている交差点において、信号待ちのために停車していた被害車両に加害車両が追突した。

2  責任原因

(一) 被告妙子は、加害車両を保有し、自己のために運行の用に供する者である。

(二) 被告和市は、前方注視義務違反の過失により、本件事故を発生させた。

二  争点

被告らは、原告の主張する中枢性平衡障害と本件事故との因果関係を争うほか、本件事故による損害額を争う。

第三争点に対する判断(成立に争いのない書証、弁論の全趣旨により成立を認める書証については、その旨記載することを省略する。)

一  原告の症状と本件事故との因果関係

1  乙第三ないし第五号証、第六号証の一ないし四、第七号証、第一〇ないし第一二号証、第一七号証、第一八号証の一及び二、証人稲福繁の証言並びに原告本人尋問の結果によれば、次の事実が認められる。

(一) 原告は、本件事故発生の日の翌日である昭和六一年一一月四日猪子病院において、眩暈、吐気、頭痛などを訴えて医師津田斉(以下「津田医院」という。)の診察を受け、頸部挫傷の診断を受けた。原告は、同月七日まで同病院において通院治療を受け、その間、頸部レントゲン撮影検査において異常所見は認められず、また、脳神経学的にも特に異常反射は認められなかつたが、眩暈の主訴が増悪したため、同月八日、入院措置が採られた。右入院中、原告は、津田医師から愛知医科大学メデイカルクリニツク耳鼻科の医師稲福繁(以下「稲福医師」という。)の紹介を受けて、昭和六一年一一月一一日、稲福医師の診察を受けたところ、同医師により原告には著明な下眼瞼向き眼振が認められることが指摘された。

(二) 原告は、昭和六一年一一月二五日、愛知医科大学メデイカルクリニツクと同系列の病院である愛知医科大学付属病院に転医し、同病院において同日から昭和六二年二月八日まで入院治療を受け、次いで、昭和六二年二月八日から同年三月三一日まで通院治療を受けた。

原告の主治医である稲福医師は、原告の症状について外傷性中枢性平衡障害と診断し、昭和六一年一二月五日付の診断書を発行し、同月六日、原告に対し、右診断を伝えた。

(三) 原告は、夫の転勤に伴つて東京に転居したため、稲福医師の紹介により昭和六二年四月九日、虎の門病院に転医し、同病院には同日から昭和六三年一〇月五日まで(実日数三一日)通院した。なお、同病院における原告の傷病名は、眩暈症であつた。また、原告は、昭和六三年六月一七日から平成元年三月一日まで(実日数六日)埼玉医科大学付属病院に通院した。なお、同病院における原告の傷病名は、中脳水道周辺症候群・慢性アレルギー性鼻炎・慢性滲出性中耳炎であつた。

2  ところで、甲第一号証、原告本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。

(一) 被告和市は、加害車両(自動変速機付き乗用車)を運転し、交差点手前で信号待ちのため、変速機のシフトレバーをD(ドライブ)位置に入れ、ブレーキペダルを踏み、被害車両の後方約一メートルの位置に停止したが、カセツトテープの操作に気を取られ、ブレーキペダルを踏んでいた足が緩み、いわゆるクリープ効果のために加害車両が前進して被害車両の後部に追突した。

(二) 被害車両は、後部バンパーがわずかに上方にズレたのみで、その修理費は八〇〇〇円程度であつた。

原告は、本件事故発生時、被害車両の助手席に正面を向いて座り、シートベルトを装着していた。

3  甲第一号証によれば、次の事実が認められる。

(一) 前記認定のように加害車両が被害車両に追突するまでに前進した距離が一メートルとすると、クリープ効果により追突時点に加害車両に生じている速度は時速三キロメートルである。右速度を前提にして力学計算したところによると、本件事故によつて被害車両に生じた衝撃加速度は、〇・二一g(gは重力加速度)と推定されるが、これは、バスがバス停に止まり、また、発進するとき出る加速度と同程度のものである。

(二) メルツとパトリツクがボランテイア及び屍体を使つて行つた頸椎捻挫の模擬試験の結果によると、頭部の胴体に対する屈曲角の静的限界値は後屈六〇度、頸部(頭蓋骨と頸椎との関節部)に働くトルク(回転力)の無傷限界値は後屈三五ft―1bとされている(Strength and Response of the Human Neck SAE Paper 710855)が、本件事故における被害車両に生じた衝撃加速度を〇・二一gとすると、ヘツドレストレイントが有効に機能していなかつたとしても、原告の頸部の後屈角は五度であつて、過後屈になるまでにはなお五五度の余裕があり、また、原告の頸部の負荷トルクは1ft―1bであつて、無傷限界値の三五分の一にすぎない。

(三) 三重大学医学部の医師鏡友雄によつて示された追突係数(被突車の有効衝突速度に同じ)と鞭打ち損傷との関係においては、鞭打ち症限界値は、一五とされているところ(鞭打ち損傷の発生に対する事故車両の重量と速度の力学的相関「脳と神経」第二〇巻・第四号八八頁)、本件の場合一・二三と限界値の八パーセントである。

4  ところで、原告は、原告には本件事故により外傷性中枢性平衡障害が生じた旨主張する。

(一) 前記1に認定した事実、乙第一及び第二号証、第一一及び第一二号証、証人稲福繁の証言を総合すれば、稲福医師は原告の症状について外傷性中枢性平衡障害と診断し、原告の中枢性平衡障害と本件事故との間には因果関係があると判断し、右判断の根拠として、<1>原告が本件事故後に眩暈を起こしていること(病歴)、<2>視標追跡検査・視運動性眼振検査のデータが本件事故後日時を追つて改善を示して来ていること、<3>平衡障害を起こす外傷以外の要因を検索した結果、明瞭な要因が出なかつたことを挙げていることが認められる。

(二) 前掲証拠及び鑑定人坂田英治の鑑定によれば、原告には下眼瞼向きの自発性眼振が著明に認められ、中枢性平衡障害が存在したことが認められる。

しかし、乙第一二号証、証人稲福繁の証言及び鑑定人坂田英治の鑑定によれば、次の事実が認められる。

(1) 下眼瞼向きの自発性眼振の原因疾患としては、アーノルドキアリー奇形、脊髄小脳変性症、大後頭孔付近の病変、頭頸部外傷の後遺症、後頭蓋窩血管障害(橋の動静脈奇形・橋の腫瘍)、アルコール中毒症、有機溶剤中毒症、動脈硬化、脳循環障害、穿通枝領城の血流低下・閉塞等が判明しているが、現在、下眼瞼向きの自発性眼振の原因疾患の全てが解明されているわけではなく、原因不明の眼振が約三〇パーセント存在する。

右原因疾患のうち、アーノルドキアリー奇形、脊髄小脳変性症がかなり多くの割合を占め、その他は少ない。

また、頭頸部外傷の後遺症により眼振が出る場合、下眼瞼向きの眼振が発現することは希であり、三パーセントの割合で起こるとの報告もある。

(2) 昭和六二年一月二一日に実施された原告の環椎軸椎位置のレントゲン撮影検査の結果では、両耳の乳様突起を結んだ線から上に環椎が出ている程度は一センチメートル弱であり、原告には、アーノルドキアリー奇形はないと一応判断される。

(3) 二互交互視検査、手足の反射検査、回外・回内反射検査、指指試験、指鼻試験等の結果から、原告が脊髄小脳変性症である可能性はかなり少ない。

(4) CT及びMRI検査の結果、原告に橋の腫瘍は認められない。

(5) 橋の動静脈奇形の有無は、血管撮影により判別しうるが、原告に対して血管撮影は実施されていない。

(6) 昭和六二年一月九日に実施された原告の小脳・脳幹を中心にしたMRI検査の結果では、小脳、橋、延髄等には著変は認められなかつたが、検査医師により両側穿通枝領域の血流低下の疑いが指摘された。

鑑定人坂田英治も原告の下眼瞼向きの自発性眼振が、穿通枝領域の血流低下に起因する可能性を指摘している。

右事実を総合すると、原告の下眼瞼向きの自発性眼振の原因として、アーノルドキアリー奇形、脊髄小脳変性症及び橋の腫瘍は一応否定されるとともに頭頸部外傷の後遺症がその他の可能性の一つとして揚げることができる。

しかし、下眼瞼向きの自発性眼振の原因がアーノルドキアリー奇形、脊髄小脳変性症、橋の腫瘍及び頭頸部外傷の後遺症に尽きるものではなく、しかも頭頸部外傷の後遺症による下眼瞼向きの眼振発生の割合は極めて少ないことに照らして考えると、稲福医師が挙げる前記<1>及び<2>の事情を考慮してもなお、原告の下眼瞼向きの自発性眼振の原因が頭頸部外傷の後遺症であると断定することはできない。

(三) 本件事故による原告の頭頸部外傷の有無

(1) 原告が本件事故により頭部外傷を負つたことを認めるに足りる証拠はない。

(2) 原告が本件事故により頸部外傷を負つたか否かについては、証人稲福繁は、「外傷により脳幹が損傷されたことは確かだろうと思う。」旨証言するが、同証人も自認するように右判断は他覚的所見に裏付けられたものではなく、むしろ、前記2に認定した本件事故態様、前記3に認定した原告が本件事故により受けた衝撃の程度に照らすと、原告が本件事故により頸部外傷を負つたとの心証を得るには至らない。

(四) 以上検討したとおり、頭頸部外傷が希に下眼瞼向きの自発性眼振の原因となり得ることは認められるが、原告の下眼瞼向きの自発性眼振の原因が頭頸部外傷の後遺症であると断定することはできず、また、本件においてはそもそも原告が本件事故により頭頸部に外傷を負つたことを認めることができないことからも稲福医師の意見を採用することはできず、他に原告の主張を認めるに足りる証拠はなく、原告には本件事故により外傷性中枢性平衡障害が生じた旨の原告の主張は理由がない。

二  結論

以上によれば、その余の点について判断するまでもなく、原告の請求は理由がない。

(裁判官 深見玲子)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例